こんにちは、整骨院自費導入アカデミー主宰の松村です。
さて、今回はちょっと整骨院の経営とか、マーケティングとか、そういう身近なテーマではありません。
興味のない方はお読みにならなくてもいいかと思います。
人間って怖いもので、慣れってあるんですよね。
中東あたりのあまり自分自身と縁のない国が空爆されたとか、テロが起こったというのは、ニュースになっていても、「あ、またか」という程度の認識になってしまう。
私は別に博愛主義でもなければ、異常なほど偏った志向、主義の持ち主ではないし、ドハマリしている宗教もない。
そうなってくると、先日のパリの同時テロなんてのは、柔道と言えばフランスだし、フランス人の患者さんも来てたし・・・と、ちょっと縁があるものだから衝撃を受けた。
ここでどっちが悪いなんて議論しても仕方ないですし、議論できるほど私自身が情報を持ち合わせていないのでできないけど、こんな争いが無益であることはみんなわかってるはず。
まあ、陰謀論だとかロスチャイルドがどうとか言い出すとキリがないけど、そういうの抜きにしたら、誰だって争いなんてしなくないはず。
でもね、結局争っちゃう。
今回のパリのテロで、Facebookではプロフ写真を「哀悼の意を表す」ということで、フランス国旗カラーのプロフ写真に変更するキャンペーンみたいなのを行った。
私は普段あまりこういうに乗らない方なんだけど、前のブログで書いたように神田昌典先生のコンサルを受けた後で、お酒の席でも神田昌典先生と色々と世の中の流れのお話を聞かせていただいたので、いっちょやってみよかということで、プロフ写真を変更したんですね。
もちろん、ただ実験的な意味だけじゃなく、テロで亡くなったすべての方々に対して哀悼の意をこめながら。
そうなると、友達としてつながっている人たちの中から、プロフ写真を論理的に批判している著名人やらのページのシェアがやたらと目に付くわけです。
親切な方は、プロフ写真を変えていることが、いかに愚かで、恥かを説きながらシェアしてくれていました。
正直、あまり良い気分ではありませんでしたが、シェアした記事を読むと、まあそれもそうやなと思う部分もあったり・・・・
でも、反対意見が出れば今度は「なんでアカンねん」という理論も出てきたり。
今度は批判してる人間が、いかに無知で愚かで恥かを説きながらシェアするんですね。
ただ共通してるのは、だれかそこそこ発信力のある方のページを「シェア」してるんですよ。
コメントつけてシェアしてはいるんですが、自身の言葉ではないんですよね。
で、この構図って「争い」ですよね?
〇〇はこうやって言ってたぞ!だからお前らは間違ってる!
いやいや、□□はこう言ってた。お前らの方が間違ってる!
要するにそういうことです。
結局、争いってそうやって起こっていくんですよね。
西條剛央先生の「構造構成主義」では、「信念対立」と呼びます。
そう、これらの争いの質が悪いのは、お互いが自分が正しいと思っていることなんです。
いやね、法律云々以外でも、明らかに倫理道徳に反するのはダメですよ。
でも、このプロフ写真の賛否なんてどっちの言い分も間違ってないような感じですよね?
そんな目くじら立てて、争うようなことでもなければ、わざわざネット上で喧嘩売るほどのもんでもないでしょう。
でも、人ってそれをやっちゃう。
私も含めて。
でね、どうしたら争いってなくなるんやろかと思うわけです。
国レベルの争いに関してとかではなく、こういうプロフ写真云々でギャーギャー言い合うようなことってどうしたらええんでしょうかね?
このブログをお読みの皆さん、どうやったら些細な争いってなくなるんでしょ?
私個人の意見を書かせていただきたいなと思います。
争い=信念対立
という等式が成立するとすれば、まず考えないといけないのは、信念とはなんぞやということになります。
辞書で信念の意味を調べたところ
1 正しいと信じる自分の考え。「―を貫き通す」「固い―」
2 宗教を信じる気持ち。信仰心。
と書いておりました。
では、次に考えなければならないことは、1であればなぜ正しいと信じるようになったのか、2であればなぜその宗教を信仰するようになったのかを考えていくべきだと思う。
だいたいは、過去の経験から作られていると思う。
国同士の争いだと、どうしても色んな要素が複雑に絡み合ってしまうので、そういう大規模な話ではなく、先述したFacebookのプロフ写真の件だとか、嫌いな食べ物の議論でもいいので、考えてみる。
Facebookのプロフ写真をフランス国旗の写真に変えるという行為に対して、批判的なことを言った方々は、なぜそれを不快に思ったのかを、自身の人生で過去にどんな経験をし、その結果どんな思いをし、今自分が批判的な意見になったのかを考えるといい。
逆もまたしかり。
なぜプロフ写真を変えようと思ったのか、批判する人を批判する前に、自身の考えを冷静に考えたらいいんじゃないかと思う。
自身の過去の経験からできた信念に、誰もケチはつけられないんじゃないか?
よほどサイコパス的要素がたくさん含まれていて、倫理的、道徳的にどうかを思うものでない限り。
真の問題はそこにあるんじゃないかなと思う。
そこで、今回のFacebookの件で問題なのは、私のようにフランスが何をしたか等あまり深く考えることなく、ただ身近に感じてる国の人間が不幸になったからという理由で行動したのも、あまりよくないことだろう。
しかし、亡くなった方々を悼むという気持ちを批判することは誰にもできないはず。
となると、反対派もただ論理的に反対している人の投稿やブログ記事などを読んで、それに影響されて
「そーだ!そーだ!」
と言わんばかりにシェアしてしまう前に、反証もしっかり調べ、自分はどちらの意見なのか、もしくはどちらの意見でもないのか、しっかりと自分の中で消化してから発信すべきではないだろうか?
もっと程度を落とした例えをしてみよう。
私はトマトが大嫌いです。
理由は簡単、不味いから。
この「不味い」というのは、私個人の感覚ですので、トマトが好きな人は信じられない。
ちなみに、トマト単体は嫌いでも、モスバーガーにトマトが入ってても、何かと一緒に食べて不味くなければ食べられます。
ケチャップも全然OK。
でも、トマト単体はダメなんです。
もうね、喉頭拘扼反射、催吐反射って言うんですか、オエッってなっちゃう。
今、これを書いてるだけでも、ちょっと気分が悪い。
また、そのクソ不味い味とともに、小学4年生の時に、給食でトマト丸ごと1個出てきて、それを意地でも食べなかったら、当時の担任が口にむりやり押し込んできて、食べたもの全部吐いたのも思い出す。
でもね、私はトマト好きな人に「てめ〜、トマトなんて食いやがってコラ〜!」なんて言いませんし、「そんなクソ不味いもん食いやがってコラ〜!」とも言いません。
例え家族やスタッフがトマトを食べていても、トマトを食べないということを勧めるようなことはしません。
でもでも、トマト好きな人って、トマト嫌いな人にトマトを食べることを勧める、しかも笑顔で親切心旺盛に。
「あ〜、良いトマト食べたことないねんな。ホレ、このトマト食べてみ?トマトの味がしっかり出てて、この甘みはもうフルーツの域やで〜。ホラ一口食べたらわかるから」
なんどこういう言葉に騙されて、トマトを口にして吐きかけたことか。
まるで、トマトの美味しさわからないなんて、あなたはなんてかわいそうな人なの的視線で、私を見てくる。
これは何かというと、トマトを美味しいと感じる人は、トマトを食べることで過去に「喜び」という経験をしている。だからその喜びを分かち合いたい。
あげく、それでもかたくなにトマトを口にしないでいると
「こんな美味しいもん嫌いなんて信じられへん・・・」
と、この世の終わりのような絶望感をにじみ出したりする。
正直、何度もシバこうかと思ったほど、この親切には参った。
トマト好きとトマト嫌いは、基本的に相容れない。
じゃあ、そこでトマト論争という名の争いを生まないにはどうすればいいか?
答えは超カンタンで、
「あ、この人はトマト好きなんだな」
「あ、この人はトマト嫌いなんだな」
って認め合えばいいだけ。
トマト好きな人は、サラダにトマトが入っていれば、「これ食べてやるよ」くらい言えば、私のようなトマト嫌いはすごく感謝こそすれ、ムカつくことはない。
まあ食べ物の好き嫌い論争ってこれでだいたい解決できるわけなんだけど、これがネット上だとそうはいかない。
だからこそ、自身の意見を発信する時にはそう思うにいたった動機が必要だと思うし、何か意見を発信している人に共感したなら、なぜ共感したのかを客観的に分析して、どこに共感したのか、100%全部共感したのか、どこか「ここだけは共感してへんけどな」っていうポイントがあるのか等をわかりやすく伝えながらシェアしないといけないんだなと思う。
ま〜、よくもテロや戦争といった規模のでかい話から、トマトの好き嫌いというしょーもない話題に転嫁できたなと我ながら感心する(笑)
でも、結局争うってことの元凶は、そういうレベルと同じようなことじゃないかな?
ということは、争いをなくす、争わないようにするためには、別に自身の信念を曲げる必要はないから、「あ、こういう信念を持ってる人がいるんやな」と認め合い、そしてそれがとことん自分と相容れないものなのであれば、その時点で関わるのを辞めたらそれでもう争いは生まれないんじゃないだろうか。
自戒をこめて。
※私にトマトは勧めないでください(笑)
あ、あとグリーンピースと、ピーマンとカボチャとサツマイモとジャガイモと、納豆も・・・・